沖縄・首里 奥深き都市空間の歴史を学ぶ

沖縄の首里城・正殿が焼け落ちて来月で1年になる。象徴を失ったかつての王都は、コロナ禍で客足も遠のく。観光で支援を、と旅を計画していた方には、なんとも残念な事態である。

首里の光彩は、再建を目指す城だけではない。地質・風土・歴史……。都市空間としての城下町の奥深さを学びたい。まちまーい(街めぐり)できる日を心待ちにして。

王都を支えた湧き水の恵み

北部、中部、南部に割拠して有力者が覇を競った沖縄本島が統一され、琉球王国が成立したのは1429年。中国やタイ、マレーシアなど東南アジアを結ぶ海上交易の要衝として栄えた琉球王国の〈グスク=城〉は、なぜ首里に築かれたのだろうか。

首里城から東シナ海を望む。琉球王朝は中国や東南アジア諸国と交易し独自の文化を育んだ。泡盛の製法はシャム(タイ)から伝わったという説が有力だ

「湧き水」「祈り」「ものづくり」。3つのキーワードから、首里の都市空間の来歴を考えてみたい。

まず、水の恵みである。

沖縄県の年間降水量は2000ミリを超え、全国平均を2割ほど上回る。だが、度重なる干害に悩まされてきた。亜熱帯の島は〈サンゴ=石灰岩〉が隆起して形成された。透水性が高く、表土にしみ込んだ雨水が流出してしまう場所が多いのだ。

首里城から北に徒歩10分ほど。沖縄都市モノレール線の儀保駅にほど近い那覇市首里儀保町の住宅地の一角に、王朝時代から枯れることなく、こんこんと湧く水源がある。

自然石を積み上げた石垣の隙間から地下水がほとばしる。手を浸すとひんやりして気持ちがいい。

土地の人は、宝口(たからぐち)のヒージャーと呼ぶ。漢字では「樋川」と書く。雨樋(あまどい)を伝い、水が流れ落ちるさまをイメージしていただければ近い。

王朝時代から干ばつの際も枯れることなく湧く「宝口樋川」。城下屈指の湧水量を誇る(那覇市首里儀保町)

那覇市にはおよそ120カ所の湧き水や井戸が残るという。王族や中国からの使節団に供された首里城の「龍樋(りゅうひ)」と呼ばれる名水を筆頭に、その多くが城周辺の標高50~140メートルほどの丘陵地にある。

なぜか。先述のように沖縄県土の表層は隆起サンゴの石灰岩からなる。首里一帯では、その下層に保水性のある泥岩層が覆う。石灰岩に浸透し、浄化された雨水は泥岩層に蓄えられ、断層から地下水となって湧くのだ。

王朝がこの地に城を築いた理由のひとつは、地下水の利があったからだ。

水は信仰と結びつく。

「これは水の恵みに感謝した住民が線香をたいて祈りをささげた香炉です」。首里の5カ所の湧水を案内してくれた地元の「まちまーい」(街めぐり)ガイドが教えてくれた。

「まちまーい」(街めぐり)ガイドと湧水をめぐる。人々は水の恵みに感謝し、信仰の聖地である「御嶽」が形成された(那覇市首里当蔵町)

水源の近くには、本土の神社にあたる「御嶽(うたき)」がある。霊力の強い女たちが神事を執り行った。

図式化すれば〈水=コミュニケーションの磁場〉→〈御嶽=信仰〉→〈グスク=領民を支配する政治・軍事拠点〉という連鎖が、首里の都市空間を醸成したのである。

「宝口樋川」の周囲には、7つに区分けした古びた水槽がある。

那覇市では1933年に水道が引かれた。が、地上戦でインフラは壊滅。米統治下の1958年に水道が再整備されるまで、人々は水場に集い、飲料、野菜の洗浄、洗濯など用途ごとに水を分かち合った。水槽はその名残だ。

この湧水をポンプでくみ上げている家がある。水を引き込むパイプをたどって歩くと、小さな「琉球和紙」の工房に行き着いた。

「ここに王府が管理する紙すき所があり、公文書の記録紙などを納めていました。その伝統も一時途絶え、かつての技法を継ぐのはうちだけ」。工房「蕉紙庵(しょうしあん)」を営む安慶名清さんが仕事場を見せてくれた。島に自生するバショウを原料にした生成り色のレターセットなどを手作りする。唯一無二の王朝文化を伝える。

豊かな水は、ものづくりを支えた。

首里では王家御用達だった味噌蔵が今ものれんを守る。

創業160年の「玉那覇味噌醤油」だ。建屋は戦禍で失われたが、王朝時代に築造された石垣が残る。敷地には2つの井戸がある。「仕込みは水道水ですが、今も湧き水を大豆やタンクの洗浄に利用しています」と5代目の玉那覇有紀さん。

王府御用達の味噌蔵が今ものれんを守る。地下水が城下のなりわいを支えた(那覇市首里大中町の玉那覇味噌醤油)
味噌造りに井戸水は欠かせないものだった(那覇市首里大中町の玉那覇味噌醤油)

庭先に、地下水が石灰岩を浸食してできた鍾乳洞がある。戦後、家屋を再建するまで、玉那覇さん一家は、しばらくこの洞穴で暮らしたという。

王朝時代から戦後まで――。500年の都の地勢、習俗、なりわいを伝える都市遺産が、街角にひっそりたたずむ。首里城「守礼の門」を撮影し、通り過ぎてしまうのはもったいない。

すべての道は首里城に通ず――琉球石灰岩で造られた王朝時代の古道(那覇市首里金城町)

戦跡としてのグスク

首里の名品と言えば泡盛である。かつて城下に数十軒の蔵元がひしめいていた。これも蒸留酒に適した石灰岩から染み出す硬水の恩恵だ。

泡盛は、薩摩の島津氏が琉球を支配した1609年以降、徳川幕府への献上品になった。これを機に王府は、御用達の酒造家を首里城下の崎山・赤田・鳥堀の3つの集落に限定した。品質管理に万全を期すためだ。

その流れをくむのが、首里崎山町の瑞泉酒造。世界的な酒類品評会でも高評価を得ており、県下で最も有名な蔵元のひとつだ。

17世紀以降、泡盛は江戸幕府への献上品になった。嗜好品としてだけでなく薬効もあるとされ珍重された(那覇市首里崎山町の瑞泉酒造)

隣町の首里赤田町に「時雨」の銘柄で知られる識名酒造がある。社長の識名研二さんが、沖縄戦にまつわる家族の歴史を教えてくれた。

1945年4月1日。米軍は沖縄本島の西海岸、読谷村に上陸した。本丸は約30キロ南。旧日本陸軍第32軍が司令部を置く首里城である。

城下に戦火が迫るのは時間の問題だ。研二さんの祖父は、王朝末期に仕込んだ古酒のカメを庭の地下深くに埋めた。その後、妻と娘たちを連れ、本島南部の鍾乳洞に逃れた。

戦闘終結後、祖父が首里の自宅に戻ると――。一帯は破壊し尽くされていた。が、埋めた3つのカメのうち2つを掘り起こすことができた。「自宅の仏壇の下に家宝として大切に保管しています。最も古いカメは150年の古酒。沖縄で最も古い泡盛でしょう」

沖縄生まれの芥川賞作家、目取真俊さんに「ブラジルおじいの酒」という戦争と古酒にまつわる一編がある。

南米に単身移住した沖縄の老人が戦後、焼け野原となった島に帰郷。孤独のうちに生を終える物語だ。地上戦で肉親を失ったおじいには、生きるよすががあった。父が将来、いつかおまえが帰ってきたら酌み交わそうと約束し、洞穴に隠した古酒である。

識名さんの話を聞いて、おじいが古酒を探し当て、亡父の形見として慈しむように独酌する場面が浮かんだ。

焼失した首里城の再建とともに、周辺の戦跡を保存・公開しようという機運が高まっている。

焦点のひとつが戦時中、城内に築かれた旧日本陸軍司令部の地下壕(ごう)である。先月、総延長約1キロの壕のうち150メートルがメディアに公開された。石灰岩層に縦穴をあけ、泥岩層に達した場所から横に掘り進んでいる。「守礼の門」の地下には司令官室があった。もっと知られていい史実だ。

沖縄戦で旧日本陸軍は首里城地下に第32軍司令部壕を築いた。平和学習の拠点として保存・公開を望む声もあり、沖縄県は今後、その当否を検討する(首里城公園内)

首里城の展望台「西のアザナ」に立つと、米軍が上陸した慶良間諸島など沖縄戦の激戦地が遠望できる。

首里城から3キロほど北に浦添城の跡がある。沖縄学の父・伊波普猷(いは・ふゆう)(1876~1947)は「王城はかつて浦添にあり、その後、首里に遷都した」との学説を唱えた。

首里遷都以前の王城だったとの学説がある浦添城の跡。沖縄戦では首里の防衛の激戦地に。米軍は切り立った崖地を「ハクソー・リッジ」と呼んだ(浦添市)

「伊波説は、沖縄戦で証明された」と論じるのは、沖縄考古学会会長を務めた當眞嗣一さんだ。

著作によると、旧日本軍は司令部がある首里城守備のため、浦添城があった丘陵地(前田高地)を防衛ラインに定め、北から迫る米軍を迎え撃った。

これと同様、15世紀に沖縄本島を統一した尚氏は、北部の有力者の南進に備え、浦添のグスクを防御の要塞として残し、より条件に恵まれた首里に遷都したのではないか。沖縄戦から読み解く琉球考古学である。

近年、浦添城跡を訪ねる人が増えている。米映画「ハクソー・リッジ」(メル・ギブソン監督)が4年前に公開されたからだ。題名は、米軍が名付けた浦添城跡の絶壁のこと。負傷した米兵の命を捨て身で救った実在の非暴力主義の衛生兵の伝記だ。

昨年10月の火災で焼け落ちた首里城正殿の石組みの土台。世界遺産に登録されている

首里城炎上からまもなく1年。コロナ禍で当地を訪ねる客足は減った。今は静かに王都の来歴を、図書や映像で学ぶことを提案したい。

感染症が収束したら――。火災で焼け落ちて露出した首里城正殿の石組みの土台(世界遺産)は、再建工事が本格的に始まるまで、じっくり見ることができるはずだ。ここを出発地に、古都を深く感じる旅ができるだろう。

和歌山章彦氏

鈴木健氏撮影

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