一軒のカフェから地方創生 コロナ禍でも攻める

バルニバービ社長・佐藤裕久さん(人間発見)

「一軒のカフェ経営を街づくりに」と考えるバルニバービ社長の佐藤裕久さん(神奈川・三浦海岸の新店で)

「一軒のカフェ経営を街づくりに」と考えるバルニバービ社長の佐藤裕久さん(神奈川・三浦海岸の新店で)全国に飲食店92店を展開するバルニバービ社長の佐藤裕久さん(58)は業界の異端児だ。あえて人通りの少ない立地に出店し、人の流れを変え、5年間で売り上げを倍近く伸ばした。その手法は、都心の一等地の価値が揺らぐコロナ時代の飲食店の姿にも通じる。

4月下旬、神奈川県の三浦海岸沿いにレストランを開きました。近くの農家や漁師から食材を仕入れる地産地消スタイル。テラス席があり、連日にぎわっています。元は海岸沿いをジョギングしていて見つけた空き家です。潮風を感じながら家族や恋人とゆっくり食事をしたらさぞかし楽しいだろう。さっそく購入し、皆でペンキを塗って建物に命を吹き込みました。

経営する全店で3500近くテラス席があります。これほどテラス席のある飲食店は他にないでしょう。2015年10月にマザーズに上場した時、一部の投資家からは「天候リスクは高い会社だね」と言われました。

そう思われても仕方ありません。海沿いの店の夏の晴れた日の売り上げ150万円が、突然の雨で20万円になります。待機していた20人のスタッフも無駄になる。店長はしょっちゅう天気予報をチェックしています。でも他では得がたい心地よさを体験してもらいたくて、テラスにこだわり続けてきました。コロナが起きてからは「密にならない店づくりは成長の可能性がある」と言われるようになりました。「バッドロケーション戦略」を事業戦略に掲げる。全店舗の4割が世間一般には悪い(バッド)立地とされるエリアだ。だからこそ、独自の開拓が可能だと考える。

「コロナが起きてからは『密にならない店づくりは成長の可能性がある』と言われるようになった」と笑う

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「コロナが起きてからは『密にならない店づくりは成長の可能性がある』と言われるようになった」と笑う

人通りのない場所だからこそ家賃が安く大きな店をつくれるので、もともと席と席の間もゆとりがありました。路面店ではコロナの影響も少なく、客数は8割近くまで戻ってきました。

先日、キリンビール社長の布施孝之さんに20年前の飲食店向けの小冊子を見せていただきました。僕が寄稿で「他人に人の流れを用意してもらい、そのおこぼれで商売するのは僕の性に合わない。マーケットは自分でつくっていく」と書いていました。布施さんは「20年以上言っていることが変わらないなあ」と笑っていました。三浦半島でやっていることは大阪・南船場の1号店とまったく同じです。

ウイルスに食中毒、異常気象。飲食店はリスクだらけの商売です。その割に利益率が低い。人の配置を少し間違えると利益が吹き飛びます。それでも四半世紀続けてこられたのは、食べ物で人を喜ばせ、喜ぶ人を見ることが大好きだから。ただそれだけです。我々のスタッフは皆同じ気持ちだと信じています。

今はたまたまコロナに強いといわれていますが、状況が変われば再びリスクが高い企業と呼ばれることもあるでしょう。時代の風潮や流行により、会社は良くも悪くも評価を受けるものです。だからこそ目先のことに右往左往することなく、本当にいい店を追求し続けます。京都西陣にある菓子屋の長男に生まれ、商売の神髄を学んだ。小学生の頃から吉行淳之介の小説を読む、ちょっとませた少年だった。

店の手伝いをするか、本を読むか、勉強するか。学校から帰ってきた僕には、この3つしか許されていませんでした。昔かたぎな父は、台所に男が立つことも許さないタイプの人。夕飯を作る祖母の手伝いをしようものならば怒られたくらいです。

「早く家を出て自由になりたい」。父を恨むこともありましたが、今は感謝しています。多感な小学生から店の手伝いをしてきたことで、人を喜ばせることが自分の喜びとなる感覚が僕の体にしみつきました。

京都の大学に進学してほしかった親の反対を押し切り、1浪して神戸外大に入学しました。トイレは共同、風呂なしの築40年の4畳半の下宿部屋。それでも僕にとって楽園でした。自らの人生を自らの手で歩めるんだと喜びに浸りました。

ところが、まじめな学生が多い大学でやんちゃな僕はなかなか同級生となじめません。面白くないなら自分で何かオモロイことをしようと、全新入生を巻き込んだイベントを企画しました。近くの裏山に忍び込んで竹を切り落とし、四輪駆動車で運んでステージに飾る。今では捕まりそうなこともしました。企画は大成功。その後は他の大学生とも組んで活動の場を広げました。さらには学生起業家として、企業のイベント企画も請け負うようになりました。勉強よりもそれ以外の活動が面白くなり、大学を中退。社員8人のアパレル会社に就職した。

アパレル企業に勤めていた頃。一流デザイナーに囲まれ笑っているが、目はうつろだった(左が佐藤さん)

アパレル企業に勤めていた頃。一流デザイナーに囲まれ笑っているが、目はうつろだった(左が佐藤さん)

大学1年で留年し、2年に進級したものの、翌年また留年しました。もう学業への気力がなくなり、3年への進級テストを受けませんでした。当時はアパレルメーカーがカフェを手掛けるなどファッション性の高い飲食業が登場し始めていました。今思えば心の中で飲食店への思いがあり、ファッション業界に就職すれば道は開ける、と考えていたのかもしれません。

入社後すぐ、コンテナスペースで傷物や不良品を格安で販売する仕組みを考え、5坪で月1000万円を売り上げました。その実力を買われ、1年半でスピンアウト。フランスのアパレルブランドと日本での独占販売契約を結び、初年度で年商2億円以上の会社にしました。

喜びもつかの間。忘れもしません。1988年の1月3日。仏の会社が倒産したとの連絡がパリの社員から入りました。急いで現地に行ったものの、元の経営陣の消息は分からずじまい。パリの路地裏のカフェで失意のどん底にいました。

元日に自宅を火事で失ったばかりでもありました。27歳の僕に残ったのは、絶望と多額の借金だけでした。

パリのファッションショーで撮った1枚の写真があります。一流デザイナーに囲まれて、あふれんばかりの笑顔を浮かべていますが、いま見ると目がうつろです。お金もうけばかり考えて、自分がどうありたいか、人生で何を実現したいのかを何も考えていなかった自分が写っています。この写真は自分自身の戒めでもあるのです。27歳から31歳までは「人生の空白の時間」。借金を返済するために早朝から深夜までひたすら働き続けた。

企業の社員運動会では台本書きから大玉転がしの玉出しまで。ミニチュアのレーシングカーのジオラマを作ってレースを開き、富裕層をもてなす手伝いをする。街の喫茶店のメニューをデザイン・制作する。依頼が来れば、どんな仕事も引き受けました。世の中はバブルの絶頂期。街のネオンが明るすぎて、自分が余計に惨めに感じました。

これまでの人生、一体何を間違えたのだろうか。何をしたいのかも分からなくなってしまいました。30歳でバルニバービを立ち上げた時も、仕事をマネジメントしやすくするためで、何か目標があったわけではありませんでした。

ようやく借金の返済を終え「人生の再チャレンジを」と考え始めていた95年1月、阪神大震災が起きます。自分が学生時代に過ごした街が崩れていく。絶望の淵にいる人々を見て、何かしなければと現地に駆けつけました。塩とごま油で味付けしただけのかゆの炊き出しをすることに。食べてくれた人々の顔が明るくなりました。

食べ物はこんなに人を喜ばせることができる。そして僕自身を幸せにしてくれる。これこそがやりたいことだ! 33歳にして、ようやく生きる目標を見つけられた気がしました。95年の暮れに大阪・南船場に1号店のビストロ「アマーク・ド・パラディ」をオープン。数カ月後には30坪で月1500万円を売り上げた。

お金がなかったので南船場の1号店は解体から改装、ペンキ塗りまで手作り。今もそのたたずまいを残す

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お金がなかったので南船場の1号店は解体から改装、ペンキ塗りまで手作り。今もそのたたずまいを残す

当時は人の往来はほとんどない場所でしたが、若いクリエーターたちが住み始め、かすかな躍動を感じ取りました。吹き抜け天井の物件は、パリの路地裏のカフェみたいな店をつくりたかった僕にはぴったりでした。

一軒のカフェで人の流れが変わり、街はにぎわいを取り戻す。確かな手応えを感じました。1号店はバルニバービの原点。25年後の今も当時の姿のままたたずんでいます。

2号店、3号店、4号店……。出す店すべてが繁盛し、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していきました。「南船場ブームの仕掛け人」「大阪の飲食店を変えた男」。マスコミに取り上げられ、ビルのオーナーからは出店依頼が次々と舞い込みます。中には改装費まで出すというオーナーもいました。資金力に乏しかった僕は、社員の反対を押し切って依頼に応じました。

「佐藤さん、このまま店舗数を増やせば上場できますよ」。証券会社の一言に、それまでちっとも興味のなかった上場を意識し、数字を追い掛けるようになりました。

大失敗でした。もともと店舗数や売り上げを増やしたくて始めた事業ではありません。最高のおもてなしで、お客様を笑顔にし、自らが幸せになろうとしたのですから。「格好いいことばかり言って、やっていることが違うじゃないか」。エプロンを僕に投げつけ、辞めていった社員もいました。

すべては僕のおごりが原因です。02年には11店を閉鎖しました。本当に大切なものは何かを気付かせてくれることになり、この時の経験が、今日のバルニバービをより強くしてくれました。不採算店の処理を終え、たった一人、東京で勝負をかけることにした。

中途解約金などを支払い、退店問題は片付きましたが、組織の大幅な変更など矢継ぎ早の改革で、社員は心身ともに疲れ果てていました。早く未来に向けて次の一手を打ちたかった僕に対し、社内から反対の声が上がります。「ようやく傷口が塞がり、かさぶたになってきたのに、焦ってひっかき回したらまた傷が開きます」

確かに社員にはリハビリの時間が必要でしたので、大阪の既存店を彼らにしっかり守ってもらうことにしました。ここからは再び独りでの戦いの始まりです。外食マーケットはどうなっているのか。夜遊びの場所は。東京中を歩き回りました。

小石川(文京区)、千住(足立区)、両国(墨田区)、練馬(練馬区)……。面白い場所が手付かずのまま置き去りにされている状態を目の当たりにして興奮を覚えました。

東京の1号店に選んだ場所は東京タワーのふもと。出店した2000年代前半は今と違い、地方の人の観光名所でした。東京の人は見向きもしませんでしたが、タワーを見上げるテラス席で食事ができたら絶対に足を運んでもらえると思いました。予想通り、大喜びされました。残念ながら繁盛した途端に家賃が値上がりし、定借契約を理由に僕らは追い出されました。

飲食店は、出店してもうからなければすぐに撤退する「スクラップ&ビルド」の激しい業界です。でも僕は、その土地の人々に長く愛され、地域とともに成長し、街の一部となる店をつくりたい。だから永続的に店をできるよう不動産を購入するようにしています。僕ら程度の規模の飲食店で、これだけ不動産を所有している会社は珍しいのではないでしょうか。11年4月、東京下町の蔵前(台東区)にある600坪の空きビルを丸ごとリノベーションし、飲食店ビル「ミラー」を開いた。

かつて楽器店の倉庫でした。7階建ての空きビルの窓からは、当時まだ建築中だった東京スカイツリーと隅田川が望めました。問屋街で人の往来もほとんどなく閑散としていましたが、人をひきつける魅力に満ちあふれていました。長らく、その価値に気づいてあげる人がいなかったのでしょう。

当初は月500万円で借りる契約でした。ところがオープン直前に東日本大震災が起こり、状況が一変します。福島の原子力発電所の事故の影響で、ビルの所有者が急に「売りたい」と言ってきました。土地と建物を買おうと決断しました。

それから約10年。いま蔵前にはおしゃれなカフェや雑貨屋、ホテルが点在しています。多くのクリエーターが集い、街が新たなにぎわいをつくりました。

街に活気が生まれるのはとても時間がかかります。飲食業は短期的な視点ではなく、じっくり腰を据えて取り組むことが大切だと改めて感じました。

これまで僕らが培ってきた食と人、ロケーション開発のノウハウを生かして大規模なエリア開拓を進めていこう。一軒のカフェから街づくりへ。蔵前は、バルニバービが地方創生に挑戦するきっかけとなったプロジェクトでした。

東京での基盤を築き、15年10月にはマザーズに上場した

東京での基盤を築き、15年10月にはマザーズに上場した19年4月、淡路島(兵庫県)の西海岸沿いに1700平方メートルの土地を開発、レストランをオープンした。週末は長い行列で、都内一等地を超える売り上げを記録した。

10年前から淡路島の生産者たちとお付き合いを始めました。淡路島の食材を集めてマルシェやフェアを催したり、各店で使えるプライベートブランドのカレールーを作ったりしました。

地方を面白くする仕事をしたいと思い始めたのは、東京五輪の誘致が決まった13年ごろです。人口が集中し、地代は上がり、東京は今よりもっと住みにくくなるでしょう。それなのに若い人はつまらないから田舎には住んでいられないと言います。淡路島も例外ではありません。明石海峡大橋で本州と結ばれ人口が増えると期待されましたが、逆に人が流出しています。

現地に行くと、海岸沿いに雑草地帯がどこまでも広がっていました。水平線の向こうに夕日が沈む様を見た瞬間、ここなら十分に人を呼び込むことができると確信しました。何もないから、何でもできるのです。

さっそく地元の漁師に、ここで地方創生に取り組みたいと相談したところ、喜んで協力しようと言ってくれました。17年には海岸沿いの土地を購入しました。ミシュランガイドに掲載された大阪の有名レストランのシェフが僕の考えに賛同し、プロジェクトに加わってくれました。彼は家族で移住しました。

準備は順調に進みますが、オープン間近、店の責任者が心配そうな顔で尋ねてきます。「車でしか来られない場所でアルコールなんて売れません。大丈夫でしょうか?」。僕は言い返します。「一緒に来る家族や友人の誰か一人がお酒を我慢してでも来たくなる。そんな店をつくるんだ」

4月にはコロナによる移動自粛で大阪からお客様が来なくなり、一時的に売り上げがガクンと落ちます。今度は別のスタッフが「地方創生というけれど、結局、大都市に支えてもらえなければ地方は生きていけないのではないですか?」と聞いてきました。

強く否定しました。都市から観光客を呼び、お金を落としてもらう観光ビジネスをやりたいのではありません。雇用を生み出し、働いている人が街の魅力に気づき、家族を説得してでも移住したいと思う。これが僕がめざす地方創生の姿です。7月下旬、レストラン近くに16室のホテルを開業した。

レストランやホテルは入り口にすぎません。同じ海岸沿いに道の駅のようなマルシェを催す場やケーキ工場、グランピング施設、移住者向けの集合住宅の計画が進行中です。地元の生産者だけでなく、大勢がプロジェクトに参画してくれています。

食をベースに地方創生といっても「佐藤がまた訳の分からないことを」と思われるかもしれません。人は目に見えないものを想像できないから、具体的なカタチにして伝えていきます。全国各地に埋もれる価値や魅力に光を当て「訪れたい」から「住みたい」街へ、真の地方創生への歩みを続けていきます。

(編集委員 大岩佐和子氏)

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